村上春樹 一人称単数&シューマン 謝肉祭:20200830 [読んだ本]
『騎士団長殺し』から3年ぶりの小説。短編集では『女のいない男たち』から6年ぶりになります。
ある種の麻薬のような? 「くせ」がある村上春樹さんの文章が作り出す世界。
しばらくぶりに味わうことができました。
本当は、読み応えのある長編小説が読みたいですが、春樹さんの短編集には、短編集の良さがあります。
春樹さん自身が、短編集のことを次のように語っていました。
「僕は長編小説にはうまく収まりきらない題材を、短編小説に使うことがよくあります。ある情景のスケッチ、断片的なエピソード、消え残っている記憶、ふとした会話、ある種の仮説のようなもの(たとえば激しい雨が二十日間も降り続けたら、僕らの生活はどんなことになるだろう?)、言葉遊び、そういうものを思いつくままに短い物語のかたちにしてみます。」
長編を書くための準備だったり、そのクールダウンであったり、
又、長編にはなりえない断片的なもので、でも、捨ててしまうには勿体のないもの等を救い上げて、作品の形にしてくれたもの…
春樹ストの人たちには、たまらないエキスがたくさん含まれているんだろうなと。
そして、久しぶりの短編集である「一人称単数」もそんな本の一つでした。
「石のまくらに」
「クリーム」
「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」
「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」
「『ヤクルト・スワローズ詩集』」
「謝肉祭(Carnaval)」
「品川猿の告白」
「一人称単数」
どの作品も、読み始めると村上春樹さんの独特な匂いが、ページ全体から立ちのぼって来て、
待ち遠しかった春樹ワールドへあっという間に。
春樹さんらしいなと思った作品は「石の枕に」でしたが、
一番に印象に残ったのは「謝肉祭」でした。
タイトルにもなっている「謝肉祭」、春樹さんの作品には、ストーリーとしっかりと結び付いた音楽たちが登場してくるのですが…。
例えば前作の「騎士団長殺し」では、リヒャルトシュトラウスの「バラの騎士」、モーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」、
「1Q84」ではヤナーチェックの「シンフォニエッタ」、シベリウスの「ヴァイオリンコンチェルトニ短調」、
「海辺のカフカ」では、シューベルトピアノソナタ第17番ニ長調、etc etc …。
「謝肉祭」はタイトル通りの曲、シューマンの「謝肉祭」が登場しますが、登場するだけではなくテーマであり、モチーフそのものでした。
作品の中で主人公とかかわることとなる「醜い女性」が語ります。
『~~「謝肉祭」はかなり初期の作品だから、ここにはまだ、彼の悪霊たちははっきりとは顔を出していない。カルナヴァルのお祭りが舞台だから、至るところに陽気な仮面をかぶったものたちも溢れている。でもそれはただの単純に陽気なカルナヴァルじゃない。この音楽には、やがて彼の中で魑魅魍魎となっていくはずのものが、次々に顔を見せているの。ちょっとした顔見せみたいに、みんなカルナヴァルの楽しげな仮面をかぶってね。あたりには不吉な春先の風が吹いている。そしてそこでは血のしたたるような肉が全員に振る舞われる。謝肉祭。これはまさにそういう種類の音楽なの』P170
『この作品は、ある意味では遊びの極致にある音楽だけど、言わせてもらえれば、遊びの中にこそ、精神の底に生息する邪気あるものたちが顔を覗かせるのよ。彼らは暗闇の中から、遊びの音色に誘い出されてくる』p171
正直、シューマンのピアノ曲はそれほど聴いていなくて、CD も2種類(イエルク・デムスとギルトブルク)のみ。しかも、きちんとは聴いていません。
でも、こんな風に言われると、絶対に聴きたくなってしまう。
「遊びの中にこそ、精神の底に生息する邪気あるものたちが顔を覗かせるのよ。彼らは暗闇の中から、遊びの音色に誘い出されてくる。」この魑魅魍魎とは、春樹さんの作品によく出てくる小人たち、リトルピープルですよね。
もう、絶対に。
シューマンの二面性、梅毒が進行して晩年のシューマンは幻覚を見たり、悪夢に悩まされたり、
現実の世界と幻覚等の世界の見分けがつかなくなっていたそうです。
謝肉祭の中で、楽しむ人たちの仮面と仮面の下の素顔、
お話の中で、主人公(春樹さんでしょう)とシューマンの「謝肉祭」の曲でかかわり合いを持つ女性「F*」(お話の中での名前)、
お話の冒頭から主人公が会った中で一番の「醜い女性」と描写される女性は、その醜さと洗練された趣味や所作の持ち主。
サントリーホールのコンサートで出会い、意気投合してよく会う様になり、音楽についてのおしゃべり。
その中で、島に持っていく曲を一曲選ぶとしたらと言う問いに、
2人とも、シューマンの「謝肉祭」を選びます。
融資詐欺をその夫(女性とは違ってモデル並みに端正なルックス)と共に行い逮捕されますが、「醜い仮面と美しい素顔—美しい仮面と醜い素顔」…。
作品の中で、「謝肉祭」がぐるぐると、ずっと鳴り響いていました。
「謝肉祭」の演奏、
お話の中で、主人公のベストワンはルビンシュタイン、彼女のベストはミケランジェリ。
HMV や AMAZON etc etc…、探してミケランジェリのものはゲット出来ましたが、ルビンシュタインのものは絶版になっていて手に入りませんでした。
手に入らないとなると、どうしても聴きたくなっています。
確かに、この曲は演奏するアーティストによって、かなり違った曲になります。
じぶんのもっているもので言えば、若いボリス・ギルトブルクのものは、二面性と言うものはあまり感じなくて、シューマンの音楽を純粋に表現しようとしているように思います。
魑魅魍魎と言うよりは、謝肉祭の楽しさ、若々しいシューマン、エルネスティーネ・フォン・フリッケンへの恋心…、そんなものを感じます(ちなみに、エルネスティーネと婚約をしたけれど解消してます。そして、クララに恋心をその後に。)。
新しく手に入れたミケランジェリのものは…、確かに…楽しさの光、ごちゃごちゃとした混雑や猥雑感の影の中から、リトルピープルが一人、二人、三人…。
ルビンシュタインのものを探さなくては。
相変わらず、部屋で過ごすことが多い毎日です。
確かに出かけることによる刺激は少なくなっていますが、春樹さんの本で久しぶりに音楽の刺激をもらうことができました。
「謝肉祭」、ルビンシュタイン、そして、シューマンも。
シューマンのピアノ曲は、バッハやモーツアルト、ベートーベン、シューベルトなどに比べると、統一感や厳格さは曖昧かな?
でも、その分、自由なんだろうと思います。
お部屋時間の課題、一つ心の抽斗を作ってみようかと。
" 2020/08/30 Haryki Murakami Ichininsyo Tansuu & Schumann Carnaval op.9"
ある種の麻薬のような? 「くせ」がある村上春樹さんの文章が作り出す世界。
しばらくぶりに味わうことができました。
本当は、読み応えのある長編小説が読みたいですが、春樹さんの短編集には、短編集の良さがあります。
春樹さん自身が、短編集のことを次のように語っていました。
「僕は長編小説にはうまく収まりきらない題材を、短編小説に使うことがよくあります。ある情景のスケッチ、断片的なエピソード、消え残っている記憶、ふとした会話、ある種の仮説のようなもの(たとえば激しい雨が二十日間も降り続けたら、僕らの生活はどんなことになるだろう?)、言葉遊び、そういうものを思いつくままに短い物語のかたちにしてみます。」
長編を書くための準備だったり、そのクールダウンであったり、
又、長編にはなりえない断片的なもので、でも、捨ててしまうには勿体のないもの等を救い上げて、作品の形にしてくれたもの…
春樹ストの人たちには、たまらないエキスがたくさん含まれているんだろうなと。
そして、久しぶりの短編集である「一人称単数」もそんな本の一つでした。
「石のまくらに」
「クリーム」
「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」
「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」
「『ヤクルト・スワローズ詩集』」
「謝肉祭(Carnaval)」
「品川猿の告白」
「一人称単数」
どの作品も、読み始めると村上春樹さんの独特な匂いが、ページ全体から立ちのぼって来て、
待ち遠しかった春樹ワールドへあっという間に。
春樹さんらしいなと思った作品は「石の枕に」でしたが、
一番に印象に残ったのは「謝肉祭」でした。
タイトルにもなっている「謝肉祭」、春樹さんの作品には、ストーリーとしっかりと結び付いた音楽たちが登場してくるのですが…。
例えば前作の「騎士団長殺し」では、リヒャルトシュトラウスの「バラの騎士」、モーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」、
「1Q84」ではヤナーチェックの「シンフォニエッタ」、シベリウスの「ヴァイオリンコンチェルトニ短調」、
「海辺のカフカ」では、シューベルトピアノソナタ第17番ニ長調、etc etc …。
「謝肉祭」はタイトル通りの曲、シューマンの「謝肉祭」が登場しますが、登場するだけではなくテーマであり、モチーフそのものでした。
作品の中で主人公とかかわることとなる「醜い女性」が語ります。
『~~「謝肉祭」はかなり初期の作品だから、ここにはまだ、彼の悪霊たちははっきりとは顔を出していない。カルナヴァルのお祭りが舞台だから、至るところに陽気な仮面をかぶったものたちも溢れている。でもそれはただの単純に陽気なカルナヴァルじゃない。この音楽には、やがて彼の中で魑魅魍魎となっていくはずのものが、次々に顔を見せているの。ちょっとした顔見せみたいに、みんなカルナヴァルの楽しげな仮面をかぶってね。あたりには不吉な春先の風が吹いている。そしてそこでは血のしたたるような肉が全員に振る舞われる。謝肉祭。これはまさにそういう種類の音楽なの』P170
『この作品は、ある意味では遊びの極致にある音楽だけど、言わせてもらえれば、遊びの中にこそ、精神の底に生息する邪気あるものたちが顔を覗かせるのよ。彼らは暗闇の中から、遊びの音色に誘い出されてくる』p171
正直、シューマンのピアノ曲はそれほど聴いていなくて、CD も2種類(イエルク・デムスとギルトブルク)のみ。しかも、きちんとは聴いていません。
でも、こんな風に言われると、絶対に聴きたくなってしまう。
「遊びの中にこそ、精神の底に生息する邪気あるものたちが顔を覗かせるのよ。彼らは暗闇の中から、遊びの音色に誘い出されてくる。」この魑魅魍魎とは、春樹さんの作品によく出てくる小人たち、リトルピープルですよね。
もう、絶対に。
シューマンの二面性、梅毒が進行して晩年のシューマンは幻覚を見たり、悪夢に悩まされたり、
現実の世界と幻覚等の世界の見分けがつかなくなっていたそうです。
謝肉祭の中で、楽しむ人たちの仮面と仮面の下の素顔、
お話の中で、主人公(春樹さんでしょう)とシューマンの「謝肉祭」の曲でかかわり合いを持つ女性「F*」(お話の中での名前)、
お話の冒頭から主人公が会った中で一番の「醜い女性」と描写される女性は、その醜さと洗練された趣味や所作の持ち主。
サントリーホールのコンサートで出会い、意気投合してよく会う様になり、音楽についてのおしゃべり。
その中で、島に持っていく曲を一曲選ぶとしたらと言う問いに、
2人とも、シューマンの「謝肉祭」を選びます。
融資詐欺をその夫(女性とは違ってモデル並みに端正なルックス)と共に行い逮捕されますが、「醜い仮面と美しい素顔—美しい仮面と醜い素顔」…。
作品の中で、「謝肉祭」がぐるぐると、ずっと鳴り響いていました。
「謝肉祭」の演奏、
お話の中で、主人公のベストワンはルビンシュタイン、彼女のベストはミケランジェリ。
HMV や AMAZON etc etc…、探してミケランジェリのものはゲット出来ましたが、ルビンシュタインのものは絶版になっていて手に入りませんでした。
手に入らないとなると、どうしても聴きたくなっています。
確かに、この曲は演奏するアーティストによって、かなり違った曲になります。
じぶんのもっているもので言えば、若いボリス・ギルトブルクのものは、二面性と言うものはあまり感じなくて、シューマンの音楽を純粋に表現しようとしているように思います。
魑魅魍魎と言うよりは、謝肉祭の楽しさ、若々しいシューマン、エルネスティーネ・フォン・フリッケンへの恋心…、そんなものを感じます(ちなみに、エルネスティーネと婚約をしたけれど解消してます。そして、クララに恋心をその後に。)。
新しく手に入れたミケランジェリのものは…、確かに…楽しさの光、ごちゃごちゃとした混雑や猥雑感の影の中から、リトルピープルが一人、二人、三人…。
ルビンシュタインのものを探さなくては。
相変わらず、部屋で過ごすことが多い毎日です。
確かに出かけることによる刺激は少なくなっていますが、春樹さんの本で久しぶりに音楽の刺激をもらうことができました。
「謝肉祭」、ルビンシュタイン、そして、シューマンも。
シューマンのピアノ曲は、バッハやモーツアルト、ベートーベン、シューベルトなどに比べると、統一感や厳格さは曖昧かな?
でも、その分、自由なんだろうと思います。
お部屋時間の課題、一つ心の抽斗を作ってみようかと。
" 2020/08/30 Haryki Murakami Ichininsyo Tansuu & Schumann Carnaval op.9"